昭和四十四年一月十一日


X御理解第七十一節  「ここへは信心のけいこわしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこわしておけ。」


 この御理解は、一番最初と一番最後のところを頂くと、このご理解の真意と云うものが分かる様ですね。ここへは信心の稽古をしに来るのである、というところ、こことはお広前のこと、そんなら、その信心の稽古は、壮健な時、ここへ参って信心の稽古をしておけとおっしゃる、壮健な時と云うのは、勿論な時ということですけれど、普段と云う事でしょうねえ。又、自分の心掛け次第では、お参りしようと思えばお参りの出来る時の事だと思います。

 そこで、おかげは我家で受けよと云う事。これは、自分の家と云う意味だけじゃあないと思う。ここ以外のどこででもと云う事。その場その場でおかげを受けよと云う意味だと思う。

 そこで、ここへは信心の稽古をしに来る所とおっしゃるのですから、そんなら、どういう信心を稽古させてもらうか。そこに、人一の焦点と云うものが大事になってきます。教は、そのどこを焦点に信心の稽古をさせて頂くかと云う大変、難しい事を聞いて頂きます。

 昨夜の月次祭の御理解に、在業消滅、我情我欲が消滅していく。それを昨日、私は、本当の意見合いに於いての御用。「御用によって、神の用をたせば、氏子の用は神が足してやる」と、おっしゃる様なおかげにもなると同時に、本当の意見合いに於いての御用が自分の在業と云うか消滅していく、云うなら、天地に対する難儀の元、と云うものが御用によって、消えていく。御用によって、おかげを頂いていく。御用によって、お徳が受けられると云うお話でしたね。その御用と云うのは、神様のお働きがあっておる、その、神様の手にもならして頂こう、足にもならして頂こうと云う、それが御用だと云う風に説きましたですねえ。

 その御用は、もう即徳だ、徳だから、氏子の用は神がしてやると云う風な働きになってくる。と云う様な事を、いろいろ昨夜はお話しましたですね。やはり、そういう自分の身のいわば罪深さというか、自分の家のめぐりの深さという、お互いが、やはり、先祖代々から積み重ねてきた天地に対するおそまつ御無礼が、めぐりとなってなんと受けろとおっしゃるのですから、まず、やはり、そういう自分の身のいわば罪深さと云うか、自分の家のめぐりの深里云うものを、認めない訳にはまいりません。

 ところがです、今日は、この七十一節のどこに焦点をおいて、信心の稽古をするか、今年は、「いよいよ明るく、いよいよにこやかに」をもって、焦点とする。だから、明るくなろう、にこやかになろうと思うても出来ないところに、ひとつの在業をかんずる、人間の業というものを感ずるわけです。

 自分で自分の心が、自由にならない。それは、業のせいです。いわば仏教で云う業です。業をからってきておるから、心配にならん事が心配になったり、暗い心にならんでよかとに暗い心になったりするのですよ。

 だから、そういうものが信心の稽古によって、段々、お取り払いを頂く。云うなら、明るくなろう、にこやかにならして頂こうと云う前に、明るくなろう、にこやかになろうと思うても出来ん。これが人間の業だと分からして頂いたらそんなら明るくなる前に、にこやかになる前に、この業のお取り払いを頂かねばならん事が分かるでしょう。

 信心とは、本当の稽古の焦点と云うのは、有難くならして頂く事ですけれども、どんな事柄でも、どんな、場合でもそれを、有難い有難いと心を使うていけれる稽古なんですよ。有難い事じゃ、勿体ない事じゃと、自分の心がコロコロと、かわっていく。

 一時は、ちょっと心が暗くなったけれども、思うてみりゃ、又、金光様と唱えさして頂きよったら、その困った事じゃが、有難い事じゃ、勿体ない事じゃと云う事になってくる。信心させて頂く者の幸せをそこに感じさせてもらう。

 ところがです、業を持っとりますから、有難くならして頂こうと思うても、有難いとは反対の事ばっかり、心にうかんでくる。不安、焦操、腹立ち、いらいら、もやもやと明るくなろう、にこやかにもなろうと思うけれども、それと反対の事ばっかりが、心にうかんでくる、心に感じて来る。

 ですから、本気で清まらせて頂くおかげを受けて、その業のお取り払いを頂かねばならん。

 これは、実際と云うと難しいですけれども、こういうものだと云う事を、知っとって頂きたい事があるのです。それが、難しいと云うのです。

 私は、今朝御神前へ出らして頂いたら、今、若い方達の歌う歌に「ゆうべの事は、もう云わないで」と云うのがあるでしょう。ゆうべどんな事があったかしらんけれども、もうそれはいわないで、難しいのはここなんです。

 云うまい、思うまいと思うても、それが心の中に浮かんでくる、信心さして頂いて、云わば全ての事が、神様のお徳の世界おかげの中にあっておるんだと、悟らしてもらう時に、今迄にこれはきれいだ、これはきたないと思うておった事がもうなべて、一切がきれいなものになってくるのです。

 それを少し云うと、全てが有難いもの、全てが勿体ないもの、路傍の石を見ても、それに話かけたい、感謝したくなる様な心が起きてくる。信心とは、もう本当に有難ずくめの中にきたないものがあるはずはないのです。そこが人間なんです。ゆうべの事は、もう思い出すまいと思うてもゆうべの事が心に浮かんでくる、浮かんできても、それが、有難いと思へればよいのですけれども、こげなこつじゃあ、おかげ頂かれまい、こげな汚い自分では、もう神様があいそつかいなさるじゃろう。その心が、おかげを受けないのです。

 それを、分かり易く云うと、「流れ川 三尺」と云いますね。流れに流れておる清らかな川で、ここで汚いものを洗ったかと思うと、もうそれが三尺流れた時には、もうそこで食べ物を洗うてもよいごたると云う意味なんですよね。

 私共の心が、そういう心の働き、例えて云うとね、お金に不自由しとります。いくらいくらどこに払わねばなりません。お繰り合わせを願ってあります。ところがお繰り合わせを頂いて、人が使うときなさいと云うて、金を持ってきてくれたと致します。お繰り合わせを頂いた訳なんです。

 そういう時に、それを本当におかげと思へれる心なんです。ところが心のすみにですね。これは、本当のおかげじゃないか、棚からぼたもちが落ちたみたいに、自分のお金として、頂けたら、例えば、思いがけない商売で金のお繰り合わせを頂いたと云うと、それを、おかげ頂いたと云うけれども、借りた金は、それを、おかげと思いきらん。

 十何年か前の話ですが、善導寺の原さんが、金銭のお繰り合わせを願うておられた。ところがどうしても頂けん。ところた近所の人が、これ使うときなさいと云うてお金を持ってきてくだっさた。奥さんは、「おかげ頂いて有難かですねえお父さん」と云うたら、「そればってん、それは借ったっじゃなかか」と云われた。又、戻さなならんと云う訳なんです。

 今日の信心の難しさと云うのは、そこなんですよ。誰彼のお金であっても、ここに私に使うことを許されておると云う事は、もうおかげであると同時にです。もう誰のもの彼のものはないのです。神様の目からご覧になったら、一切が神様の御ものを、只、私は使わせて頂いておるのですから、おかげなんです。今日の信心の難しさはそこです。それを、おかげと頂けるように、心がコロコロと使える様になったらね。今日のいうならば、いよいよこれは業のある間は、それが思われません。

 銀行から借りる、誰からか貸してもろうた。これを、おかげでない様に思うとる。自分のお金が入る時でなからなおかげでない様に思うとる。

 例えば病気をします。お医者さんにかかります。薬をのみます。この薬がきいたと、云う事と同時にです。その薬がきいたという事の中に、神様がきいたとでも申しましょうか、薬のおかげでと云うよりも神様のおかげでと云う方が強い心のお繰り合わせ、もっと云うならば、この薬とても、天地の親神様のお恵みなしには出きんのだと云う本当の頂き方、こういう頂き方が、本当に頂けてくる様になりますとね。今日、私が云うておるところもさほど難しいものじゃなくなってくるのです。

 これはですね、大変に難しい事なんです。人間の心ほと、いわば汚いものはない。その汚いものが、むき出しに出てくる。こんなこつじゃあ、おかげを受けられんと思う心がおかげを受けられんのである、その汚いと思うておった自分の心もです。実を云うたら美しいんだと、分からしてもらう世界がある。

 汚いものの中に美しいものを分からして頂く信心、もう昨日の事は、云わないで済む信心、そこにみるものはいつも有難いと思う心、御礼を申し上げる心、いつも勿体ないと云う心だけしか出てこないのですよ。

 ここへは、信心の稽古をしに来る所であるとして、本気で稽古に通うて来る、ところが、私共の場合は、稽古に通うて来ておるのやら、何しに来よるのやら分からん。只この事ばおかげ頂かんならんから、お参りをしてきよる。

 云うならば、ここに病人があったりしたら、お参りが出来んとおっしゃってあるが、さあ病気をした、困った事が起こってこなければ神様とは、云わんものの様に思うとる。

壮健な時、信心の稽古をしておけと云うのは健康な時と云うだけではなくて、暇な時と云う意味もあろうけれども、自分で工面させて頂けば、どんなにしてでもお参りの出来ると云う時をおろそかにしてはならないと云う事。

 壮健な時、健康な時、ここへしっかり参って来て稽古をしておかねばならんのに、不健康になりだしてお参りをしてくると云うのじゃあはじまらない。ですから、この七十一節は、初めと最後が大事。

 そんなら、壮健な時、ここへ参ってどういう稽古をするか私共がです。本当に云うならば、極楽浄土、どちらを向いても有難い。どんな場合であっても、それを有難い有難いと思へれる様な、心の状態を願っての信心の稽古一切をおかげですとしていけれる稽古。

 だからそれは、段々出来てくる様になるけれども、自分の心に取り組んだ時です。それを、おかげと頂ききらない。信心すると段々自分の心と云うものが分かってくる自分のふがいなさと云うか、自分の汚さと云うか、そういうものが見えてくる。

 ですから、そこに平身低頭お詫びさしてもらってから、そのお詫びが吐うたと云う気持ちが、心がさっぱりする様な場合もあります。それも、過程としては、非常に大事なところ。

 けれども、ここはですね、様々な信心の稽古が出来てですね、もうそれこそ悟りの境地ですよね。汚いものを即美しいものと見えるのですから難しい事です。

 それこそ、ゆうべの事は、もう云わないで済む信心、ところが仲々難しい。例えば、私がこうして紋付袴の時には、御神前に出ますが、これが一旦下がってできらん。しかし、それが例えばどてら一枚着とってもそれが、紋付袴と感じれる様なおかげの事なんです。今日のご理解は、だから難しいですね。

 けれども、それが、信心の薄い人だったら、それが平気なんですよ、泥足で上がろうが、どげな仕事着でも上がって御祈念せろと云われたらするでしょうが、段々分かってくれば、くる程にです。神様が有難いと同時に神様はこわい方じゃと云った様な事が分かってくる。

 私は、夜やすむ前なんか絶対上がっていききらん、そこにまあだ私の業を感ずる。そこに、私がもう少し清まり、もう少し業のお取り払いを頂いたら、それこそ、素裸でも、あそこへ出られる様なおかげが頂けるんだと、そこにはひとつもお祖末もなければ御無礼もない。只、あるものは、有難いものばっかりしかない様な、世界がまあだある事だけは分かってきた。

 いわゆうおかげは、和賀心とおっしゃる。どんな場合でも和らぎ賀ぶ心が頂けるおかげ、どんな汚いことをしよっても、その中に、和らぎ賀ぶ心、おかげである、勿体ない事であるとして頂ける心、そこにです。おかげの世界があるのです。

 それを、その事にひかかり、その事がいつも自分の中にあってです。こんな事じゃあおかげ頂かれんのです。それを、様々な修行によってです。昨夜から頂きます様に、本気で、神様の手にも足にもならして頂こうと云う様な、願いの元に信心の稽古をさせて頂く事によってです。お徳が受けられる、同時に在業消滅、我情我欲が消滅していく。

 そういう過程を私共は通らにゃならん、そこんところを、私共は、おろそかにしてはなりません。けれども、実を云うたら、自分の心次方、自分の心ひとつでです。そこにあるものは有難いものばかり、美しいものばかりと云うおかげの中にあるのですけれども、自分の業、と云うものが、それを汚く見せたり、有難くない世界に見せたりしておるだけでございます。

 大変難しい事です。けれどもこの七十一節のここへは信心の稽古をしに通うて来る所である。そんなら、どこへ焦点をおいて稽古をするか。なる程、難しいけれども、その難しいところに焦点をおいて、信心の稽古をさせて頂く、そこには、なんの稽古でも同じですね。稽古が身についてくると、楽しみが出来てくる。

 いわゆる壮健な時ここへよく参って信心の稽古をしておけ、もうとにかく暇を作って、暇さえあればお参りしたいと云う様なです。楽しさと喜ばしさと云うものが、頂けてくる様になる。だから、ここのところを大事にしていけばです。おかげは家で受けよとおっしゃる。いわば、お広前以外のどこででも、たちどころに、おかげはうけられる。

 その為にしっかり、ここへ参って信心の稽古をしておけ。

 ところが、信心の稽古が稽古にならずに、何か心に願いを立てるしか、何か困った事が起こってこなければ、お広前にも通うてこないと云う様な事では、この七十一節の内容は分からないと思うのです。

 私共の心の中には、これが美しい、これが汚いと云う事は実を云うたらない、実際は汚いと思うとるその心も実は、美しい心であると、分からして頂く様な信心、それを、和賀心と教祖はおっしゃっておられます。

 不浄なわが心で犯するもあれば、払う事もありとおっしゃってあるのですから、自分の考え方では、それを不浄として受けなければならない。自分の心次第で、それを払う事も出来るとおっしゃっておられるのですから、これは大変難しい事ですね。今日は、そういう難しい事を聞いて頂いた訳ですけれども、そういう難しいところに焦点をおいて、段々おかげを頂いて、金銭のお繰り合わせの例を申しましたが、必ずしも自分のものでなからなければおかげと云う事ではない。借金もおかげと分からして頂けるなら、それを、支払わせて頂く時には、又、神様が支払うて下さったんだなあと云うお繰り合わせの中に頂けると云う事を申しましたですね。どうぞ。